僕はどちらかといえば、フリーソフトウェア信奉者です。
オープンソース万歳です。
リチャード・ストールマン素晴らしいと思うし、レッシグ教授の著書にも共感します。
難しいことはわかりませんが、自分が何か苦労して得る物があったとして、それを得るという行為が快感な人間であり、得た物を売るのが第一の目的ではありません。
もちろん、生きていくためには金も必要です。
そのためには、対価を得てプログラムを書くということも必要でしょう。
そしてそれはプログラムにとどまらず、いわゆる著作物、知的所有権を保護する考えの礎かと思います。
僕も、相応の物には正当な対価を支払います。
でも払わない人も沢山いるんですよね。
それも恐ろしいことに、コンピュータ業界の内側の人間にもゴマンと。
ストールマンもまさか、有償のソフトウェアを無視して自由に使え、などとは言ってないでしょう。
彼は有償のソフトウェアを一切使わないだけですよね、己の信念の為に。
#ぴんと来る人がいたらゴメン。
#アナタのことを責めたいのではなく、責めたいのは自分自身です。
ここでクダクダと、法律は守りなさいとか、違法コピーはいけないことなんですよとか、いい子ぶるつもりは全然無くて、僕も法律は破ることだってありますよ。
でも、自分のルールは破りたくない。
自分に背中向けて、生きていけないですから。
「人から何か貰ったら、『ありがとう』と言いなさい」
と娘に嘘のしつけをするような父親でいたくないんですよ。
大人の「ありがとう」は、お金でしょ。
もちろん、金で全てを解決するというようなことを言うつもりも無いのですが。
一番悲しいのは、(割と近しい)自分の周りの人間に、(そんなつもりなくて)そういう気持ちを踏みにじられることです。
そういう人たちは、僕が書いた本も、僕の歌の入ったCDも、僕の書いたプログラムも、コピーして友人に配るんだろうなと思って悲しくなるんです。
他の人に対してそれを行うってことは、今たまたま自分が「他の人」の分類に入ってないというだけで、いつか入る可能性があることは確かだから。
「禁煙したんだ、すごいねぇ」と言いつつ、「ごめん、煙草吸っていいかな?」
そんなもんなんだよね。
その煙が僕を(肺ではなく、心を)どれだけ傷つけるか、それと似たようなコト。
僕の身近な人たちですら、変えることが出来ない。
それが悲しい。
そして、強制することもできない自分の弱さがもっと悲しい。
心の痛み、お察しいたします。
人を変える事は出来ません。
でも、変えるきっかけを作る事は出来ますよ。
ご自身の信念を大事になさってください。
人を変える事はできない。
この言葉の重みを噛み締めています。
色々な場面で。
変わるきっかけを、そのトリガーを引く手伝いをできればと思うのですが、なかなかそれすらも難しいものですね。