僕にとって『斑尾』とは、原点そのもの。
1974年3月8日に長野県飯山市に生まれ、父は当時、斑尾高原開発(株)の社員でした。
物心ついた頃にはもう、社員送迎バスに乗り込んでは、毎週のようにスキーに出かけ、弟と一緒にゲレンデを滑り回っていました。
まさに冬の斑尾高原は、僕ら兄弟にとっての『庭』そのものでした。
中学校3年生の時に、父の転勤で飯山を離れ、幾年もの月日が流れました。
僕は結婚し、34歳になり、子供も2人。
20年の月日を経て、再び訪れた斑尾の地=故郷(ふるさと)。
直滑降で滑り降りていたあのゲレンデを、今度は自分の脚で駆け下りる!!
石川弘樹プロデュース『斑尾Forest Trails 50km』
斑尾Forest Trailsは、今年で2回目。
トレイルランナーとして世界的に活躍している石川弘樹さんが、渾身のプロデュースで開催してくれている大会で、15kmと50kmのコースに分かれ、それぞれ150名/350名に参加者を限定して行われています。
環境への影響を抑えるために、そこに立ち入らないという極端な方法もあるかと思います。
しかし、環境に積極的に関わりながら、共存していく方法はないのでしょうか。
日本人の森林との接し方は、古来からそうであったのではないでしょうか。
運悪く第一回の開催を知らなかった僕は、偶然この大会の存在を知り、後先考えることなく直ぐに申し込みました。
僕が走る理由、原点はどこにあるのか。
それはきっと、僕のルーツをたどる中で見つかるはずだと思って。
本格的なトレイルのレースに参加するのは、今回が初めてと言っていいかもしれません。
定山渓トレイルフェスティバル16kmや、富士登山競走には参加したことがありますが、定山渓はコースのほとんどが林道(砂利道)ですし、富士登山はちょっと趣が違うというか、それ単独でひとつのジャンルを形成してしまうほど別格ですから。
房総半島や大菩薩などにトレイルランに出かけはしましたが、合わせて3回。
十分にトレイルのテクニックを身につけているとは到底言えません。
しかし、不安はありませんでした。
少年時代の僕にとって、野山を駆け巡るのは当然のこと。
他のトレイルレースだったら、不安でしょうがなかったかもしれません。
でも、僕は斑尾の森を知っているんです。
朝6:30スタート。
上はフラッドラッシュスキンメッシュに、patagoniaのキャプリーン1(with 石川弘樹さんの直筆サイン)、下はpatagoniaのナイントレイルズショーツ、靴下はx-socks、膝にニューハレVテープ、足首にあしくび簡単、シューズはmontrailのハイランダー。
装備品は、Powerジェルを3袋と、VESPA EX80をポケットに突っ込んで、あとは無し!
前日ぎりぎりまでSUUNTOの心拍計を購入しようか迷いました。
昨年の第1回大会で4位だった宮地さんと話す機会があり、斑尾はかなり「走れる」コースだと聞いていたため、50km脚を残すために心拍コントロールがあったほうが安心ではないかと、真剣に悩んでいたのです。
結果的に購入は見送りましたが、この決断が吉だったとは、このときは知るよしもありません。
START→(7.7km)→1A
スタートしてから、斑尾高原ホテルに向かって車道を登っていきます。
結構な急坂なので、最初はゆっくりと周りを窺いながら走っていきました。
今回のレースを頭の中で組み立てます。
ポイントは斑尾山の下り。
ゲレンデを駆け下りるこの下りは、制動が効かなければスピード違反必至、間違いなく脚が壊れるでしょう。
この時点で脚を壊してしまったら、この後の緩やかな下りのトレイルを楽しく駆け下りることはかなわず、亡者の行進のごとく彷徨うことになります。
50km走りきるためには、4A手前の袴岳(30km地点)までは我慢の走りをすること、これを念頭に置いて走り始めました。
だからまだ我慢我慢。
先頭から5~6位ほどの位置につけ、ゆっくりと進んでいきます。
START地点を見下ろすゲレンデを横切ると、下からは石川さん達がマイクで大声援を送ってくれます。
俺今トップ集団にいるじゃん!
気分が高揚してきました。
斑尾山をわずか直登し、下りのシングルトラックへ。
ここで事件が起きました。
登った直後で脚が思うように動かないその一瞬、汗が目に入り一瞬集中力が途切れた時、小さなコーナーでバランスを崩しました。
下りでスピードが乗っていたため、バランスを取り戻すことができず、右脚を捻って転倒。
前転してコースから転げ落ちてしまいました。
幸い、深い谷ではなく、直ぐに這い上がり走り出すことができました。
しかし、左手からは出血し、右足首も捻り、前転した際に背中も切り株か何かに打ちつけたようです。
足首はテーピングのおかげで大事にいたっておらず、10数歩の後には走り出せる程度のものでした。
しかし、転んだ精神的ダメージは予想以上に大きかった。
ここで順位を少し落とし、8位前後。
1Aまで37’55でした。
1A→(10.8km)→2A(18.5km地点)
右足首の状態を慎重に観察しながら、とりあえず走り続けました。
何度か頭を、リタイアの文字が横切りました。
ここで無理して怪我をしてもしょうがない、本番は12月の福岡。
ただ、やめるにしてもこの場所ではSTART地点まで遠すぎます。
3A(第一関門)くらいまで行って考えようと思い直しました。
1Aの途中から2Aまで、ながいなが~い砂利道が続きます。
砂利は容赦なく足裏を突き上げ、時折足が砂利に取られるたびに右足首が痛みました。
やめようと何度思ったことか。
でも、そんなときコース脇に立っていたメッセージボードが目に入りました。
そこには石川さんのメッセージが書き込まれていました。
「辛い?辛いのはみんな一緒、頑張ろう」
そんなことが書いてあったように思います。
この後も、コースのあちこちに石川さんのメッセージボードがありました。
いちいち、そのときそのときの僕らの気持ちを言い当てており、とても力になりましたよ。
砂利道を上りきったときに目の前に開けた、野尻湖を見下ろす風景。
涙が出るほど感動しました。
最高のご褒美がそこに待っているって、石川さんのメッセージどおりでした。
僕の知る野尻湖は、冬にリフトで斑尾山の山頂に登り、そこから見下ろしたもの。
今見ている野尻湖は、もっと広く大きく目の前に横たわっていました。
自分の脚だけでここまで来たんだな、そんな感動でいっぱいでした。
2Aまで48’13でした。
2A→(5.4km)→3A:第一関門(23.9km地点)
エイドではMUSASHIを一杯、バナナをひとつ。
ここからが前半最大の山場、斑尾山登頂です。
1,382mの斑尾山との標高差400m弱を一気に登ります。
途中、岩場あり、最後はほとんど直登に近い斜度になります。
しかし上りは富士登山競走に比べたら屁みたいなもの。
この上りで、上位陣は全員一列になりました。
しかし追いついたのもつかの間、今度は一気に斑尾山を駆け下ります。
ここで再び木の根っこに脚をとらわれバランスを崩した僕は、今度は転倒しなかったものの、以後、恐怖心から下りを突っ込んで走ることができなくなってしまいました。
ゲレンデを信じられないスピードで駆け下りていきます。
スキーで何百回も滑ったコースですが、自分の脚で走ろうとは・・・それも34歳にもなってから。
スキーなら数分で下まで行けるんですけどね。
3Aまで39’38でした。
3A→(9.9km)→4A(33.8km地点)
湿原の中を抜けたり、ブナ林のトレイルを抜けたり。
景色はめまぐるしく変わり、ランナーを飽きさせることがありません。
このあたりからほんと、走る喜びを感じさせる、緩やかな下りの「走れる」トレイルが増えてきます。
前後には誰も見えず、自分がどのあたりを走っているのかはわかりません。
前後の人は近づいているのか、離されているのか。
どんどん不安になってきます。
自分の順位はおそらく入賞圏外の7~8位前後。
30km地点を越えて、第2のピークである袴岳を過ぎたあたり、疲労の局地のはずなのに急に元気が湧いてきました。
不安になんかなる必要はない。
僕は十分に速いし、強い。
そして何より僕は、この斑尾の森を知っている。
試走したとか、去年も走ったとかそういうことではない。
斑尾の森が僕を知っているのだ。
僕が歩こうと思えば歩けばいい。
僕が走ろうと思えば、気持ちいいと思う速度で走ればいい。
自然の声を聞き、自分の内なる声に耳を傾け走っている限り、僕は必ずゴールできる。
そして、結果は自ずとついてくる、と。
4Aまで1:05’42でした。
4A→(9.2km)→5A(43.0km地点)
希望湖畔を通り過ぎ、毛無山トレイルへ。
Powerジェルは底をつき、VESPA EX80をちびりちびりと飲みながら、トレイルを駆け下りていく。
空腹がごまかせないほどになってきた。
今まではエイドステーション毎にエネルギー補給していたが、もうそこまで待っていられない。
前からひとり、またひとりと落ちてくる。
明らかに脚が死んでいる。
あっという間に追いつき、追いすがる暇も与えずに抜き去っていく。
35kmを過ぎても、まだ僕は走れている。
気持ちいい。
凄い楽しい。
小刻みなスイッチバックの下りを滑り降り、木の根を飛び越え、時には木をつかんで方向転換する。
一気に坂を下り、その勢いで次の上り坂を駆け上る。
長く急な坂は無理せず歩き、トレイルを全身で楽しみながら、一歩一歩噛みしめていく。
5Aまで54’08でした。
5A→(7.0km)→FINISH
ふたたび希望湖の脇を駆け抜け、最後のトレイルへ。
45km地点を過ぎ、湿原東トレイルへと入った。
もうエイドステーションで前の選手を見かけることもなくなった。
途中で誰かが「先頭まで5分、まだまだ行けるぞ」と声をかけてくれたが、今の自分の順位はおそらく4位だろう。
せめて3位まで、表彰台には登りたい。
必至に前を追う。
右の太ももに痙攣が起きたが、上りで歩きながら右手で押さえ込んだ。
なんとか最後まで走れそうだ。
自然と小学校の校歌が口をついて出てきた。
誰もいないトレイルで、大声で歌いながら走った。
トレイルを抜けると、目の前に斑尾高原ホテルが見えた。
脇を通り抜けふたたびゲレンデへ。
眼下にはもうGOALが見えている。
コース誘導のボランティアに「前は、行ける?」と訪ねるも「・・・う~ん、頑張れば(いけるかも)」という返事。
3位は諦めた。
斑尾のGOALは、ゲレンデを横切り、上から下に向かって一気に下っていく。
石川さんが考えたのかな、脚がボロボロでも、下りに乗って一気にトップスピードでGOALテープを切ることができる。
最高の演出。
最後のゲレンデに横から入ろうとしたそのとき、一位のゴールがアナウンスされた。
二位、三位とゴールが聞こえてくる。
僕も最後のゲレンデにさしかかり、STAFFに順位を確認した。
石川さんが下で叫んでいる。
僕のゼッケン番号が呼ばれる。
ゲレンデを一気に駆け下り、トップスピードに乗ったまま両手でガッツポーズを作り、テープを切った。
ゴールには斑尾高原ホテルの社長、関さんが出迎えてくれた。
20数年前、関さんは社宅で隣に住んでいて、父の部下で、そのとき僕は小学生だった。
その僕が、今は34歳になり、スキーじゃなくてトレイルシューズを履いてゲレンデを駆け下りていた。
斑尾高原観光協会会長の寺瀬さんも、前夜のWELCOMEパーティの時に「かずきじゃないか!!」と駆け寄ってくれた。
大会のスタッフに、父の元同僚が沢山いる。
バスの運転手さん、チェックインしてくれたフロントの人も、もちろん僕の悪ガキぶりを知っている人たちだ。
その人達の見ている前で、僕は堂々と4位で胸を張ってゴールテープを切った。
関さんに駆け寄り、両手で固く握手をしながら、僕はしゃがみ込んで涙をこらえた。
関さんの優しい表情はまるで、自慢の息子を迎える父親のそれのようだった。
自分がどうして走っているのか、なんかわかった気がした。
第2回 斑尾Forest Trails 50km 男子4位入賞 4:42’21
酒井 一樹
副賞で、SUUNTOのt4cをもらっちゃいました!
前日に買わなくて本当によかった(笑)
日本人であれば誰もが知っているであろう、文部省唱歌「ふるさと」
作詞者である高野辰之が住んでいた、旧下水内郡豊田村から望んだ大持山、斑尾川が歌われていると言われています。
1. 兎追ひし かの山
小鮒釣りし かの川
夢は今も めぐりて
忘れがたき 故郷
2. 如何にいます 父母
恙なしや 友がき
雨に風に つけても
思ひ出づる 故郷3. 志を はたして
いつの日にか 帰らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷文部省唱歌「ふるさと」より
読んでいて涙が出ました。かずきさんの頑張りになのか、故郷に対する気持になのか、それを暖かく迎え入れてくれた人達になのか、きっと全部ですね。大切なレースにかずきさんの様な心根で挑めるということは本当に素敵で羨ましいことです。お疲れ様でした!怪我が酷くならないように養生してくださいね。
さかいさん
DWの古原ですよ。
さかいさん、長野出身だったんですか?!
わたしもなんです!野沢温泉や中野に住んでました。
引っ越して今の実家は諏訪のほうです。
しばらく札幌に帰ってこないんですかねー。
一樹さん 故郷を舞台に4位入賞おめでとうございます。リザルトの「酒井一樹:北海道」を発見し、もしやと思って半信半疑でしたが、本日、「斑尾」を検索中にあなたのHPに出会いました。読ませいていただきとても感激しました。こんなかたちで再開できるとは信じがたいほどありがたき幸せです。実は一昨日、信越トレイル「セクションハイク 斑尾ー赤池」に参加して来たばかりです。春の山頂詣りにリフトで昇り降りしただけだったし、今では折々の散歩の時に北に遠望するだけでになってしまい、それでも長年心残りだったのですがやっと夢をかなえる事が出来ました。今後もマラソンでご活躍の事を善光寺平の一隅から応援させていただきます。